メモ

最近、友達のとある助言から発展し、積極的に社会を相対主義ニヒリズム的に捉えてみている。
中二病っぽいが、他者がなぜある価値観を自明とみなせるのか、なぜ仮の自明性の上で自信満々な行動を取れるのか、疑問は尽きない。
しかし、この疑問自体はそんな重要ではなく、世界はいくつもの仮の自明性の偏りによって構造化されているくらいに考えている。
 
そうすると言語は、相互の情動のバランスを取るためのインターフェースとして機能すればいいのではないかという気にもなる。
言い換えると、テキトーにTPO(相手の仮の自明性)の範囲内で相手の喜びそうなこと言っとけば良いのではないか、という感じ。
 
大きな物語は死んで、社会は欲望と暴力のアメーバのような塊りに感じられる。
あー、大きな物語があったほうがいいなー。なんかないかなー、という不足感が時折やってくるが、そんなものはない。
かと言ってアメーバーの組織になるのは嫌だしなー。

なんか強いものに突き動かされていたいんだけど、そんなものは無いのだ。
欲望はあるけど、それは持て余したエネルギーとしてあるような感じだ。
社会を打ち抜くくらい強い指向性が欲しいのだが、ISとかテロするのなんかも嫌なわけで、退屈だ。

なんか、社会性の仮面のようなソフトウェアを外側のレイヤーに起動させつつ、内側に本音のソフトウェアを走らせとく、という凡庸な結論に至りそうだ。
 
本音の曖昧さ、本質のなさ、とかをみんな知るべきだと思うんだけど、多分、社会性/本音の二重性を始めから持っている(しまった)人は、そこまで疑いが及ばないのだろうな...という気はする。
なんか書いていて整理されてきたので、よかったかもしれない。
あとは、この考えをどうやって生活に反映しようか...

 

追記:

あと、ここら辺から資本主義の中でどうやって暮らすかを考えないと